ザッソウラジオは、ソニックガーデンの代表・倉貫義人と「がくちょ」こと仲山進也が、友人をゲストに招いて「雑な相談」のザッソウを重ねるポッドキャストである。2025年5月のゲストは、ラクガキライフコーチ・デザイナーのタムカイ。第1回では、テント泊の出会いから富士通での全社変革に至る「戦略性と着想の人」の半生が語られた。
第2回は、タムカイからの「雑な相談」で幕を開ける。問いはシンプルだ——「学長の頭の中を覗かせてほしい」。言葉を組み替え、パターンを見抜き、定義を解体する。三人がそれぞれの「考え方の考え方」を開陳するうちに、対話自体が「考えるとは何か」という問いへと螺旋的に収束していく。
本ドキュメントは、ザッソウラジオにタムカイがゲスト出演した3回シリーズの第2回である。第1回「テントの中で始まる戦略——偶然と打算が織りなす大企業デザイナーの冒険」、第3回「おしゃべりに花が咲く」と併せてお読みいただきたい。
第1回の振り返りから、第2回は始まる。倉貫はタムカイの半生に共振した前回を「まあ僕も自身もなんかシンパシー感じるなみたいな話だった」とまとめ、仲山はその光景をこう描写した。
仲山さん
「僕はそれこそ初対面の倉貫さんとタムカイがなんか、友達になれそうだなみたいな感じになっていくのを見れてる感じでしたけど」
初対面の二人が急速に距離を縮めていく様子を、仲山は一歩引いた場所から「見れてる」と表現する。倉貫はその距離感を「そこの様子をニヤニヤと見ている」と茶化し、タムカイが畳みかける。
タムカイ
「ほとんど喋んなかった。いや、本当はもう何も考えてなかったので、仲山さんに僕のことを紹介してもらうと、こう、ザッソウラジオにおける仲山さん、頑張り会になるかなと思って。結局、僕が一人で頑張ってしまった」
「頑張り会」——仲山にホストとしての役割を期待していたのに、気づけば自分が一人で場を回していた。しかしこの構図こそが、仲山の本領なのだと倉貫は指摘する。
倉貫さん
「これはね、学長のいつものやつなんですよ。学長がね、泰然自若とされているので、周りがなんとか頑張ろうってするという、いわゆる究極のファシリテーション。いるだけで、周りが進む究極のファシリテーション」
仲山さん
「こいつ何もやる気ないなみたいなやつですね」
「泰然自若」と「何もやる気ない」。倉貫の讃辞と仲山の自嘲が、同じ現象を正反対の言葉で照らし出す。これが三人のザッソウの基本トーンだ。
究極のファシリテーション
ファシリテーションとは一般に、会議やワークショップにおいて議論を促進し、参加者の主体的な関与を引き出す技法を指す。優れたファシリテーターは「場を支配する」のではなく「場を開く」ことで、参加者自身の力を最大化する。
この対話の文脈では、倉貫が仲山に見出した「究極のファシリテーション」は、技法の極限というよりも技法の消失に近い。何もしないことで周囲が動き出す——これはドナルド・ウィニコットの「ほどよい母親(good enough mother)」の概念にも通じる。完璧な支援ではなく、「ほどよい不在」が相手の自律を促すのだ。仲山本人が「何もやる気ない」と笑うその姿勢が、結果的に倉貫とタムカイの対話を最も自由にしている。
そして倉貫は、「雑な相談」を早めに持ち込むよう促す。いつもは最後になってしまうそのコーナーを、第2回で切り出そうという提案だ。タムカイはこの誘いに、自身の核心に近い問いで応じる。
タムカイの「雑な相談」は、自己紹介から始まった。しかし、それは通常の自己紹介ではない。
タムカイ
「僕はこうデザインをしていたりとか、ラクガキとかグラレコとかって言葉で知られているので、絵を描く人、感性の人というふうに思われると。感性もいっぱいあると思うんですけど、その中で、言葉を使うのがすごく好きで」
「絵を描く人」として知られるタムカイが、実は「言葉を使うのがすごく好き」だと切り出す。この自己開示が、第2回全体の方向を定める。
タムカイ
「例えば今日、第1回の時にラクガキ、カタカナですねって言ってもらったのも、落ちるに書くの落書きではなくて、楽しく描くでラクガキなんで、ラクガキでカタカナにしてます」
ラクガキと漢字の解体
「落書き」という言葉は本来、「落ちるに書く」——つまり落とし書き、権力への批判を匿名で書き付ける行為に由来する。室町時代の「二条河原の落書」が有名で、風刺と抵抗の文化的伝統を持つ。
この対話の文脈では、タムカイは「落書き」の漢字を解体し、「楽しく描く」という新しい語源を創造している。既存の言葉の構造を分解して別の意味を接ぎ木する——この行為自体が、タムカイの思考法そのものの実演になっている。漢字の「偏」と「旁」を入れ替えるように、概念の部品を組み替えて新しい景色を見せる。カタカナ表記への転換は、その「組み替え」の宣言でもある。
言葉への偏愛は、さらに深い水脈へとつながる。
タムカイ
「僕はこう、結構人生のテーマの一個に、今って時代が正解じゃなくて解釈ですよねみたいなことで。で、それがまた倉貫さんのスライドともリンクをしていったりして」
「正解」と「解釈」——同じ「解」の字を共有しながら、まったく異なる認識のモードを指し示す。正解は一つしかないが、解釈は無限にある。この言葉遊びの中に、タムカイの世界観が凝縮されている。そしてこのテーマは、日常の中にも作動している。
タムカイ
「奥さんとよく一緒にご飯作りながらずっと雑談してるんですけど、ある時ずっと『人生とは』って、なんかお互いが言うようになったんですよ。人生とはなんだみたいなことを会話しながら料理作ってたんですけど、ある日それを『人生には』って言い換えたら、パースペクティブが変わったんですよね」
「人生とは」と「人生には」——一文字の置き換えが、意味の方向性を決定的に反転させる。「人生とは」という問いは定義を求める。答えを一つに絞り込もうとする収束の圧力がかかる。しかし「人生には」と言い換えると、「どんな要素が必要か」と視点が広がる。「人生を面白くするにはこういう要素もあるよね、あれも必要だよね」と、途端に構成要素を考え始めるモードに入るのだ。助詞の違いが、思考の構造そのものを「定義」から「発散と設計」へと切り替える。
思考のモードを切り替える助詞の役割(認知的リフレーミング)
認知療法における「リフレーミング」とは、出来事や状況に対する解釈の枠組みを変えることで、新しい意味や可能性を見出す技法である。ワツラウィックらの『変化の原理』(1974年)では、「第二次変化」——問題そのものの枠組みを疑うことによる根本的な変化——として理論化されている。
この対話の文脈では、「とは」を「には」に変えるという、日本語の助詞の機能的差異を利用した高度な認知的リフレーミングが行われている。「〜とは」は対象の本質を規定・限定する働きを持つが、「〜には」は対象を多様な要素を受け止める空間や器として捉え、そこに属する要素を列挙する思考を自然に促す。タムカイの「言い換えたらパースペクティブが変わった」という実感は、言語の構造が私たちの認識や「考える」という行為そのものをいかに規定しているかを見事に捉えた知的実践であり、それを日常の料理中の雑談から発見している点にこそ真骨頂がある。
タムカイの言語感覚はさらに微細な領域にも及ぶ。
タムカイ
「ありがたさとありがたみっていう言葉はあるんだけど、豊かさはあるけど、豊かみって日本語の辞書に載ってねえなって思って。でもみんなには意味が伝わるみたいなものを考えると、豊かみと豊かさの違いってどこかなっていうところから、自分の中の思索を深めたりする」
「豊かさ」と「豊かみ」——辞書に載っている言葉と、載っていないが意味が通じる言葉。接尾辞の「-さ」は客観的な性質を、「-み」は主観的な味わいを示すとされるが、「豊かみ」が辞書に存在しないという事実が、逆にその言葉の必要性を照射する。倉貫は、タムカイのこの傾向が仲山にも通じることを指摘する。
倉貫さん
「言葉遊びから入っていくのは、結構学長よくあるやつですね」
仲山さん
「そうですね。この前の青木さんともね、希望の話した時も、青木さんが希望するとは言うけど、希望を持つって言わないなみたいな」
「希望する」と「希望を持つ」。そして「絶望する」はあるのに「絶望を持つ」とは言わない——この非対称性は何を意味するのか。仲山はさらに、自身の思考法を紹介する。
仲山さん
「語源を調べたり、漢字をバラバラにして読んでみたりとか」
倉貫さん
「あと、似た言葉を出すんですよね。希望だと志望とか野望とかみたいな。反対語とか。反対語よく出す。反対語よく出すな、確かに」
語源、漢字の分解、類語、反対語——これらは辞書的な知識ではなく、思考のツールとして使われている。言葉を「意味を運ぶ容器」としてではなく、「分解可能な構造体」として扱う姿勢が、三人に共通している。
言語の分解的思考
言語学者ソシュールは、言語記号を「シニフィアン(音声イメージ)」と「シニフィエ(概念)」の恣意的な結合として捉えた。言葉の音と意味の間に本質的な関係はないという前提が、近代言語学の出発点となっている。
この対話の文脈では、タムカイ・仲山・倉貫の三人は、このソシュール的な「恣意性」を逆手に取って遊んでいる。「人生とは」と「人生には」は音声イメージがほぼ同一であるがゆえに、概念の差異が際立つ。「希望する/希望を持つ」は動詞と名詞の文法構造の違いが、「希望」という概念そのものの多面性を暴き出す。言葉を「使う」のではなく「解体する」ことで、思考の裏側にアクセスしている。
タムカイはこの自己分析を締めくくる。
タムカイ
「結構こう言語にして違和感を作ってとかフックを作って、もう一段階みたいなこと、僕はやることが多い」
「違和感を作る」——これがタムカイの思考法の核心だ。既存の言葉の中にわずかなずれを導入し、そのずれが生む違和感を手がかりに、もう一段階深い場所へ潜る。そしてこの「違和感の技法」を、学長にも聞いてみたいというのが、この回の「雑な相談」の本題だった。
タムカイ
「学長のちょっと頭の中をちょっとだけ覗かしてもらえると、僕の今後のヒントにもなるかなと思って」
タムカイの問いを受けて、仲山は自身の思考の起源を辿ろうとする。しかし、まず仲山が求めたのは「タムカイのプロセスをもう少し詳しく」聞くことだった。
仲山さん
「ちょっとタムカイのやつ、もうちょっと詳しく聞いていいですか。プロセスを、自分がそういうのを思いつく時の」
タムカイは具体的な手順を明かす。
タムカイ
「僕はまず一個よくあるのは、単語、抽象化された単語が出てくると、韻が踏めないかなとか常に考えてしまう。例えば正解の解っていう字が出てくると、これって他に何かあるかな、解釈だ、一緒だわみたいな、その字面で揃うものがあったりとか」
韻を踏む、字面で揃える——音と形の両面から言葉の隣接性を探る。それが、タムカイの思考のトリガーである。そしてその起源を、タムカイは20年以上前の大学の授業に求めた。
タムカイ
「僕のきっかけ、これだったなっていうのは、僕の大学の時の恩師が、一年の時に話を聞いて、後年だから15年後ぐらいに退官される時にも聞いて、ああと思ったのが、三つのQっていう話を英語のQで、世の中の価値の変遷のQなんだって言われて」
三つのQ——Quantity(量)、Quality(質)、Quest(意味)。恩師は日本酒を例にこの変遷を語った。
タムカイ
「戦後とかの喜ばれる日本酒は、いわゆるこう、ガラス皿の上にマスがあって、グラスがあって、ダバダバってこういっぱい入ってる。つまり量が嬉しい時代だったので、クオンティティの時代だったんだと」
タムカイ
「そうすると次、安酒じゃないけど、なんか美味しい酒飲みたいねって言って、みんなクオリティを求めるようになった」
タムカイ
「今はクエストだと。意味の時代になってて、これは友達のなんとかさんが作ってるなんとか僕にゆかりのある土地のあの酒なんだっていう話をして。で、次のQは何だろうねって言われて」
三つのQ(Quantity → Quality → Quest)
消費社会の発展段階を「量→質→意味」の三段階で捉える視座は、マーケティング研究において多様な形で語られてきた。フィリップ・コトラーの「マーケティング3.0」(機能的価値→感情的価値→精神的価値)とも共鳴するが、タムカイの恩師が用いた「Q」の頭文字による統一はより詩的で、まさに「フック」として機能している。
この対話の文脈では、三つのQそのものよりも、この話が「20年以上ずっと覚えている」というタムカイの告白が重要だ。良い問い——次のQは何か——は、答えが出ないまま人の中に住み続ける。タムカイはこの「住み続ける問い」を、折に触れて人との会話の中で反芻している。「ちょっと前までは引用(Quote)の時代になってたんじゃないかな。意味性すら一回なくなって、友達がいいって言ってたとかで、みんなが見るものになる」——20年経っても更新され続ける問いの力を、三つのQは体現している。
倉貫はこの「三つ出す」という方法論に自身を重ねた。
倉貫さん
「この三つ出すも僕よくやりますね。2個だったらちょっと3つ目が出ないかなみたいなことで発想することはある」
タムカイ
「三つのQなんかは、すごく理にかなってるというか。三位一体も含めて三っていうところもあるし、Qみたいなフックもあるし」
倉貫さん
「制約がね」
「制約」——この一語が、倉貫の口から自然に出る。頭文字を「Q」で揃えるという制約が、思考を特定の方向に束ねる。そしてその束ねられた思考は、制約がなかった場合よりも遠くまで到達する。このテーマは、第5章で改めて深掘りされることになる。
タムカイ
「いいフックがある言葉は、その後ずっと考えたくなってしまうっていうのがなんで、このあと、Qの話に戻ると、ちょっと前までは引用の時代になってたんじゃないかな。意味性すら一回なくなって、友達がいいって言ってたとかで、みんなが見るものになるし、もうそれも終わって次のQなんじゃないかとか。折に触れて、飲み会で、人と話す時に話題にして」
20年前の問いが、今もなお更新され続けている。「次のQは何か」——この問いを、タムカイは酒の席で、初対面の人との会話で、繰り返し投げかけてきた。思考の種は蒔かれた場所ではなく、反芻される場所で育つのだ。
そしてタムカイは、改めて仲山に問う——「何がきっかけだったとかってあったりします?」。仲山の返答は、意外なほど素朴だった。
仲山さん
「そこまで今の話を聞いて、そんなに覚えてるきっかけみたいなのはあんま思い浮かばないんですけど。でもそうだなあ。なんか小学校の時の友達が、賢い友達がなんかノートに、シンデレラをなんかデフォルメしたやつ。なんか面白変な感じに面白く変えたやつをなんか書いているのを見て、こういう遊びをおもろいなって感じた」
シンデレラを文章でデフォルメする——絵ではなく文章で。小学生の友人が書いた、おそらくは悪ふざけに近いその変形を、仲山は「こういう遊びをおもろいな」と感じた。これが「着想持ち」の原体験かもしれない。既存の物語を素材として自由に組み替える面白さ——それは、後に仲山が「魂のごちそう」を「たまごち」に変換する行為と地続きである。
デフォルメと創造的逸脱
デフォルメ(déformation)はフランス語で「変形」を意味し、美術においては対象の特徴を誇張・省略して表現する技法を指す。パブロ・ピカソのキュビズムや、日本の浮世絵における誇張表現がその代表例である。
この対話の文脈では、仲山の友人がシンデレラを「文章でデフォルメした」というエピソードが、思考の原点として語られている点が興味深い。完成された物語を、自分の手で変形させる——この行為は、タムカイの「漢字を解体して新しい意味を作る」行為と構造的に同型である。二人の「着想持ち」としての資質は、異なる素材(物語と言葉)に対して同じ操作(解体と再構成)を行う点で共鳴している。
しかし仲山は、よりシステマティックな思考の経緯も語り始める。
仲山さん
「僕の場合、楽天入って、目の前に初めてのネットショップにチャレンジをしている、試行錯誤している人たちが何千人とかいる環境なんですよね。しかも全員楽天のシステム使ってると、売り上げのとかアクセスの数字とかを見ようと思えば、こっち側で裏側も見れてしまうみたいな。そういう環境で毎日一緒に浸ってたので」
仲山さん
「戦略性持ちだとパターンみたいなメガネかかってるから、だんだんこうパターンみたいなのあんなっていうのを、暗黙知として溜まってきて。で、その時になんか見て、例えば本読んだ時に、こういう言語化の仕方があるのかみたいな、思ってたほどを言語化してくれるみたいな。そういうのに出会うと、これめっちゃそう、本質だよなと思って」
パターンの蓄積→外部の言語化との出会い→「これめっちゃそう」という共振。仲山の思考プロセスの三段階が、ここに明かされる。暗黙知として溜まったパターンが、書籍や他者の言葉によって「言語化」される瞬間——その快楽が、仲山の知的探求を駆動してきた。そして、その代表例として「たまごち」が語られる。
仲山さん
「それこそ僕がいつもたまごちって言ってますけど、お客さんから、ありがとう、感謝の言葉を言われて、やる気になるの魂のごちそうと言いますっていうふうに、小阪裕司さんっていう人の本に書いてあったんですよ。本当、本当これだと思って」
たまごち(魂のごちそう)
小阪裕司の著書等で用いられた表現。顧客からの感謝や共感が、商売の原動力になるという考え方を「魂のごちそう」と名づけた。仲山はこれを「たまごち」と略して楽天の店長たちとのコミュニケーションに取り入れ、「たまごちゲット」というやり取りを日常化した。
この対話の文脈では、「魂のごちそう→たまごち」への変換が、仲山の思考法の核心を示している。人の言葉をそのまま使うのではなく、「ちょっと自分のアイデアを入れたくなる」——この衝動が、着想持ちの本質だ。後に仲山は小阪裕司本人に「たまごちって勝手に略して使わせてもらってるんですけど、大丈夫ですか」と確認し、「たまごちか、いいねはは」と許諾を得ている。借りた言葉を自分の言葉に変換し、その変換を相手にも開示する——この誠実な遊び心が、仲山の知的スタイルの要である。
タムカイ
「めっちゃわかります。めっちゃわかります」
そして仲山は、「着想持ち」の宿命を語る。
仲山さん
「世のビジネス書とかって、誰々のフレームワークではみたいな、そういうのを普通に使ってる人が多いと思うんですけど、ああいうのであんまりやる気しないっていうか、できない、できないですね」
タムカイ
「でも一個やっぱ思いました。人の使うの嫌だなって思ってしまう」
仲山さん
「そのまま使うっていうよりも、なんかちょっと自分でアレンジしたくなっちゃいますよね」
「人のフレームワークをそのまま使えない」——これは知的怠惰の反対にある衝動だ。既存の概念を受け入れつつも、必ず自分なりの変換を加えずにはいられない。タムカイが「正解→解釈」を作り、仲山が「魂のごちそう→たまごち」を作るのは、同じ衝動の異なる表れである。
NIH症候群と創造的アレンジ
「NIH(Not Invented Here)症候群」とは、自分たちが開発したものでないアイデアやソリューションを拒否する傾向を指す。組織心理学においては非効率の原因として批判されることが多い。
この対話の文脈では、仲山とタムカイが共有する「人の使うの嫌だな」という感覚は、NIH症候群とは似て非なるものだ。彼らは他者のアイデアを拒否しているのではなく、「受容した上で変換する」ことを志向している。原典を認め、敬意を払いつつ、自分のコンテキストに接続するための「翻訳」を施す。仲山が小阪裕司に許諾を取りに行った行為が、この姿勢を象徴している——借用ではなく、対話としてのアレンジだ。
仲山さん
「楽天で働いてたことによって、同僚の人も数千人とかにすぐなっちゃって。働いている人たちの中で、なんかいい感じの人とそうでない人いるなとか、一時期めっちゃなんかガンガンな感じでやってるけど、なんとなくその後あんまりパッとしなくなる人とか、パターンもあんなとか。いろいろ学ぶものが周りにすごい多かったので、そこからパターンを見つけて言語化できるヒントとか、まあ、たまに降ってくる時もある」
「パターンを見つけて言語化する」——これが次の章で、倉貫の「抽象化」論と合流することになる。
タムカイは仲山の語りの中に「パターン」というキーワードを見出す。
タムカイ
「パターンを探すのところが結構なんていうんですか、強いというか。それが戦略性によるものと僕があんまり思ってなかったんで、そうかと思いながら聞いてました」
ストレングスファインダーの「戦略性」が、パターン認識と結びつく——この接続をタムカイ自身が初めて自覚した瞬間だ。仲山はさらに「定義」への偏愛を告白する。
仲山さん
「あと、定義。定義を考えたい。定義、考えるの大好きですね」
ここから、倉貫が「パターン」と「抽象化」の関係を理論的に展開し始める。
倉貫さん
「パターン考えていくのが抽象化の第一歩なんじゃないって感じがしましたね。よく抽象思考、抽象と具体を交互にってよく言うんですけど、具体のパターンがない状態で抽象を考えるの難しくて」
倉貫さん
「お菓子だけ見てて、これを抽象化すると食べ物だっていうのは難しいけど、お菓子見てお弁当見てパン見てたら、これ食べるもんだなみたいな共通点、パターンは口に入れるもんだなみたいなパターンが見えてきて、初めて抽象化できるのに、みんな結構苦労してるのは、いきなり抽象化しようとしてる感じがあるっていうか」
仲山さん
「一個しか見てないのに」
倉貫さん
「一個しか具体見てないのにこう、これ抽象化するとどうすっかねみたいなことを思いがちだけど、まずそのパターンを量を、多分学長はその店舗さんのパターンを死ぬほど見てきたから、抽象化——いや、抽象化と言わずに多分共通点、ここだと」
パターン認識と抽象化の階梯
認知科学において、パターン認識は知性の基盤とされる。ハーバート・サイモンとウィリアム・チェイスの有名なチェスの研究(1973年)では、グランドマスターが局面を「個別の駒」ではなく「意味のあるパターンの塊(チャンク)」として認識していることが示された。
この対話の文脈では、倉貫が描いた「具体の量→パターン→抽象」という三段階モデルが重要だ。「みんな結構苦労してるのは、いきなり抽象化しようとしてる」——この指摘は、抽象化が「頭の良さ」ではなく「具体の蓄積量」に依存するという、直感に反する洞察を含んでいる。仲山が楽天で数千の店舗を「死ぬほど見てきた」こと、倉貫がプログラミングで無数のコードパターンに接してきたこと——それぞれの「具体の海」が、抽象化を可能にしている。
倉貫さん
「僕の場合はプログラミングをずっとやれてたので、プログラミングって、計算するとか、集計するとか、一覧で出すみたいな機能がコンピューターにいっぱいある中で、例えば一覧で出すっていうのが、Aの一覧とBの一覧とCの一覧って作っていくと、いや、これどう考えても同じ部品あるなみたいなのを見たら、これを部品でくくり出すってことをするのが、プログラミングにおける抽象化ってことになる」
倉貫さん
「やり続けたら、日常生活も全部そのメガネで見えるようになってきて、抽象化したくなっちゃうっていうのがなんかあるので」
「抽象化のメガネ」——一度かけたら外せなくなるメガネ。プログラミングという極度に形式化された領域で鍛えた「共通部品のくくり出し」が、日常のあらゆる場面で作動してしまう。タムカイも共振する。
タムカイ
「あと、やっぱりそのアウトプットをしなければいけない。僕もデザインをやってると、グラフィックデザイン、かっこいいっていう時に、かっこいいってこれで言うってことは何の要素なんだとかありますし、プログラミングもまあそこまでではないんですけど、ウェブのコーディングの方をずっとやってたんで、この共通のパーツは5回出てくるから、一個にモジュール化しよう。そういう思想はすごいあったなって思いますね」
プログラミングと日常の抽象化
ソフトウェア工学において「抽象化」とは、共通するパターンを一般化して再利用可能な部品にする行為を指す。DRY原則(Don't Repeat Yourself)はその代表的なプラクティスであり、「同じコードを二度書かない」という規律が、自然とパターン認識の筋力を鍛える。
この対話の文脈では、倉貫が「日常生活も全部そのメガネで見えるようになる」と語ったことが印象的だ。プログラミングの抽象化スキルが日常に「漏出」する現象——これは、タムカイの「デザインのかっこいいの要素分解」とも、仲山の「店舗のパターン認識」とも同型の知的操作である。三人がそれぞれ異なる領域(プログラミング、デザイン、ECコンサルティング)で蓄積した「パターンの海」が、この対話を可能にしている。
倉貫はさらに「定義」という切り口を掘り下げる。
倉貫さん
「人生とはって人生の定義を決めようみたいなことじゃないですか。で、もういやもう答え出てんじゃないってやつを、改めて考えるとかね。自分なりの定義をするっていうのも、なんか結構思考のプロセスだなっていう。まあ、僕もコンピューターの世界も本当、コンピューターには人間が定義してあげないとコンピューター動かないので、定義するっていうのが、もうこれもずっと思考の癖としてある」
タムカイ
「ここ最近だと幸せに生きるとはっていうのをずっと考えて。定義を一個作って、自分の中でこれだってなってると、チューニング��能になるじゃないですか。この要素足りてないとか、これがあるとか」
「定義を作るとチューニング可能になる」——定義は「答え」ではなく「座標系」なのだ。一度座標系を持てば、自分の現在地を測定できるし、足りない要素も見えてくる。倉貫はこの洞察をさらに構造化する。
倉貫さん
「定義を作る時に分解すると思うんですよね。さっきのQの話だと、三つのQに分解できるみたいな。時代によってQの中身が変わるっていうのは、それは分解したってことだと思うんですね。だから定義を作るって分解するってことだと思うんですよ。で、分解するってことはさっきの抽象の逆で、一つのことから、これはこれとこれとこれに分解される、だけどこの共通点はここであるっていうことを言うのが定義だとしたら、定義付けこそその具体に落とすってことの一つのやり方みたいな感じはしてる」
パターン認識=抽象化(具体→共通点→概念)。定義=分解(概念→要素→具体)。この二つの操作が、往復運動として「考える」という行為を構成している。倉貫は「三つ目」を探す。仲山がその問いに、予想外の角度から答える。
仲山さん
「僕よくやるのは、間違いのパターン。誤解のパターンっていうのを、いっぱい集めておいて」
誤解のパターン——否定的知識の方法論
カール・ポパーの反証可能性の概念に端を発する「否定的知識(negative knowledge)」という考え方がある。何が正しいかを直接的に定義するのではなく、何が間違っているかを特定することで、残った空間から正解を浮かび上がらせるアプローチだ。
この対話の文脈では、仲山が楽天の店舗支援で蓄積した「誤解のパターン」が、この否定的知識の実践例となっている。「楽天に広告を出す」という誤解、「何もしなくても売れる」という誤解——これらを体系的に集めることで、「正しい理解」が自ずと輪郭を持ち始める。倉貫が探していた「三つ目」の候補として仲山が差し出したのは、パターン化でも定義付けでもなく、「誤解の除去」という、いわば「消しゴムで描く知性」だった。
仲山さん
「楽天市場に出店をするみたいなのって、25年前の状態では楽天に広告を出す、店を開くんじゃなくて楽天に載せてもらうみたいな、そういう捉え方をする人が結構多くて。その誤解をしてると絶対うまくいかないから、何もしないと何も起こらないみたいな。だからうまくいかない人がやりがちな誤解の、これこれこれこれこれっていう、そういうパターンを考えていって、そうするとね、逆に外側がいくつか埋まってくると、自然とそのまんなかあたりのところが、見えてくる。輪郭が埋まってくると見えてくる」
「外側が埋まると、中心が見えてくる」——仲山はこの感覚を、視覚的な比喩で表現した。タムカイは即座に反応する。
タムカイ
「本体を描かない絵の描き方とか、テストやってる時やりましたよ」
仲山さん
「そうそう、周りの影とか親指の周りを描きなさいみたいなやつね、親指を描くなって。そういう、それはすごいよくやるな」
倉貫さん
「面白いな。輪郭を。要は外側を埋めたらものがよく見えるってことですよね」
ネガティブスペース・ドローイング
美術教育で用いられる技法の一つ。対象物そのもの(ポジティブスペース)を描くのではなく、対象物の「周囲の空間」(ネガティブスペース)を描くことで、結果的に対象物の形が浮かび上がる。ベティ・エドワーズの『脳の右側で描け』(1979年)で広く知られるようになった。
この対話の文脈では、ネガティブスペースの手法が、仲山の「誤解パターン」収集、倉貫の「ダメなプログラム」の教え方、タムカイの「正解のない絵」のワークショップと、三つの異なる領域で同型の原理として機能していることが発見されている。何かを直接描く(定義する)のではなく、その周囲を描く(誤りを特定する)ことで、本体が自ずと姿を現す——この「間接的なアプローチ」が、三人の知性に共通する方法論だった。
仲山はさらに、アクセサリーショップの店長のエピソードでこの原理を敷衍する。
仲山さん
「アクセサリーとかを作ってる店長さんが、スタッフが増えてきて、デザインを任そうと思って。やってみるんだけど、全然うちらしいデザインっていうのが伝わらないって言って。今までのうちのラインナップ見ればうちがわかると思うんだけどなみたいな話をしてるんですけど、ボツにしたやつがなんでダメだったのかっていうのを伝えた方が多分うちらしさが伝わるのでは」
「採用されたもの」を見せるのではなく、「ボツになったもの」がなぜダメだったかを伝える方が、「らしさ」が伝わる——正解を示すよりも、OBライン(アウトオブバウンズ)を示す方が効果的だという洞察だ。倉貫はこれを自社のプログラミング教育に直接接続する。
倉貫さん
「これ、僕らがその若いプログラマーに教えるときに、こういうプログラム書けばいいですよっていうのは教えられないですよね。なぜなら、その書き方なんて、正解はいくらでもあるからだけど、僕らの会社として、こういう書き方はダメですよっていうことは言えるんですよ。なので、そのダメなラインを排除していったら、一個の正解じゃない、その幅の広い正解をみんな身につけられる」
倉貫さん
「正解がないからといって、何でもありかっていうと、そんなことはない。でもそれはその会社としての解釈みたいなところになるので、僕らとしての解釈。OBラインはここですよみたいなのは、若い人に伝えていくところは、僕らも意識してやってる」
「正解はいくらでもある。でも何でもありではない」——この一節が、第2章のタムカイの「正解→解釈」論と合流する。タムカイはまた、自身のラクガキ講座での経験を重ねる。
タムカイ
「僕もラクガキの講座の中のアイスブレイクに、絵を描くって、みんな対象物とそっくりに絵を描かなければいけないっていう思い込むんですよね。ピカチュウ書いてくださいってピカチュウを書かなければいけないで、それって正解がある書くものなんですけど、そうしてみんなが嫌になってるので、正解のない感情を線で書いてくださいっていうワークを、喜びと悲しみと怒りと驚きを」
タムカイ
「みんな50人とかで書くじゃないですか。じゃあみんな立って他の人の線見に行ってみてくださいって言うと、私のとは違うが、こんなのもあるんだに気づくので。喜びの線の正解は絶対にないんですけれど、喜びというフレームの中にはみんながいるので」
「私のとは違うが、こんなのもあるんだ」——この気づきこそが、タムカイの講座が目指す到達点だ。正解が一つしかない領域では比較が序列を生む。しかし正解がない領域では、比較が多様性の発見に変わる。
正解なき問いとワークショップの設計
ロナルド・ハイフェッツの「適応課題(adaptive challenge)」の概念では、問題を「技術的課題」(既存の知識で解決可能)と「適応課題」(価値観や行動様式の変容が必要)に区分する。技術的課題には「正解」があるが、適応課題には「正解」がない。
この対話の文脈では、タムカイの「感情を線で描く」ワークは、参加者を意図的に「適応課題」の領域に導く装置として機能している。「ピカチュウを描く」は技術的課題(正解がある)だが、「喜びを線で描く」は適応課題(正解がない)。「他の人の線を見に行く」というプロセスが、「私のとは違う」を「こんなのもあるんだ」に変換する。この変換こそが、タムカイが目指す「正解から解釈へ」のパラダイムシフトの体験版だと言える。
タムカイ
「グラレコとか行く時も、何にもわかんないと思うけど、今から3分書いてっつって書かして、みんなができなかったっていうから、他の人の見てうわあ、すごくいいっつって一個真似してもらうっていうのを5回ぐらい続けると、全員が違う方向に成長するんですよね。僕の劣化コピー増やしてもしょうがないので」
「全員が違う方向に成長する」——これが教育者としてのタムカイの理想形だ。一つの正解に向かって収束する教育ではなく、それぞれが異なる方向に発散する教育。「劣化コピー増やしてもしょうがない」という自嘲的な一言に、この思想の核心がある。
倉貫は、ここまでの対話を「思考プロセス」という視点で束ね直す。
倉貫さん
「今の話で行くなら多分その、喜びを表現しますだったり、3分で書いてみましょうっていうことだし、Qで縛り、頭文字Qで縛るってことだったり。結構学長でいつも言う、創造性発揮するときに必要なのは制約条件であるみたいなのがあって、その思考を広げるときにも、制約条件ないと多分思考が広がらないんじゃないかなって感じは」
仲山さん
「広げようがない」
倉貫さん
「ふわふわのままがふわふわが広がるだけになっちゃうけど、ある方向性、ベクトルが決まってさえいれば、行き止まりのところがいくつか作ってれば、ある方向に対してはなんと、それでもまだ可能性は狭めてないので、一個じゃないので、正解一個にしない制約条件っていうのは、結構思考において良い条件なのかも」
制約と創造性のパラドックス
「制約が創造性を高める」という一見矛盾した命題は、心理学者パトリシア・ストークスの研究(2005年)で実証されている。彼女は、モネやシューベルト、モンドリアンといった芸術家が、意図的に自ら制約を設けることで独自の表現を開拓したことを示した。自由は選択肢を増やすが、同時に選択を困難にする——「選択のパラドックス」とも呼ばれるこの現象への対処として、制約は「思考のベクトル」を定める機能を果たす。
この対話の文脈では、三人がそれぞれ異なる種類の制約を語っていることが興味深い。タムカイの「Qで縛る」「韻を踏む」は音韻的制約、仲山の「アオアシの本を書く時の制約」はテーマ的制約、倉貫の「正解一個にしない制約条件」は方法論的制約だ。制約の種類は異なるが、いずれも「ふわふわのまま広がる」ことを防ぎ、思考に方向性を与えるという機能は同じである。
仲山が具体例を出す。
仲山さん
「それこそ僕、アオアシの本を書くときは、その育成みたいなテーマを自由に書いていいって言われると結構考えるけど、アオアシに絡めながら育成を語るみたいな制約条件があるから、だいぶやりやすいとか、そういうことですよね」
タムカイ
「冒頭に僕からも言った韻を踏もうとするとか、解っていう字を使うことにするってやると、他が考えられなくなるし、ダイ・セイ・コウって絶対頭文字にしようと思うと、真ん中の要素は絶対せいからでしか始められないみたいな。それめっちゃやってます」
「韻を踏もうとする」「同じ字を使う」「頭文字を揃える」——タムカイの言葉遊びは、実は精密な制約設計だった。制約を自らに課すことで、通常ならたどり着かない組み合わせに到達する。第2章で見た「正解→解釈」も、「解」の字を共有するという制約から生まれた着想だったのだ。
倉貫さん
「それでも十分クリエイティビティというか、全然答えは一個じゃないので。幅のある制約条件っていうのは、結構創造性というか、思考を深めるのに良いかもみたいな感じはしてますね」
「幅のある制約条件」——正解を一つに絞るのではなく、OBラインだけを示して残りの空間を自由にする。これが第4章の「ネガティブスペース」とつながる。制約は「壁」ではなく「フレーム」なのだ。
フレームとしての制約
建築家レム・コールハースは「制約は建築家の親友である」と述べている。敷地の形状、法規制、予算——これらの制約が、かえって建築的な発明を促す。同様に、ジャズの即興演奏においても、コード進行という制約がなければ、演奏者はどこに向かって弾けばよいかわからない。
この対話の文脈では、タムカイの「韻を踏む」という制約が言葉の組み合わせを強制し、仲山の「たまごち」が「魂のごちそう」の要約を強制し、倉貫の「DRY原則」がコードの構造化を強制している。三人が異なる表現領域で実践してきた制約は、いずれも「自由を減らす」ためではなく、「自由の質を高める」ために機能している。
タムカイは、この議論の中に自分自身の発見を見出す。
タムカイ
「多分なんか日常の中で制約なくいろんなものを見る瞬間と、なんか考え出すと、急に多分自分の中でガッて狭めてるのかなっていうの、今、自分の気づきとしてもありましたし。そのメガネで見ると、確かにこれもこれもあれもそうなってるっていうのは」
「日常の中で制約なくいろんなものを見る」——これは「着想」の時間だ。そして「考え出すと急にガッて狭める」——これは「戦略性」の発動だ。第1回で語られたストレングスファインダーの二つの資質が、ここで「思考プロセスの二つのフェーズ」として再解釈された。広く見る(着想)→ 狭める(戦略性)。この往復が、タムカイの「考える」という行為の正体だったのかもしれない。
そして倉貫が、この回全体を一言でまとめる。
倉貫さん
「考えるとは何かを考えるみたいな回になりまして。好きなリスナーにしかついてこれない、考える考えるのこじらせすぎた感じの」
タムカイ
「そうですね」
倉貫さん
「そういうの話せる方が、僕らは大好物なので、良いお題をいただいたということで、第2回としてはこれで十分な撮れ高ということで」
「こじらせすぎた」——倉貫のこの自嘲が、三人の知的な遊びの本質を端的に表現している。「考えるとは何か」を考える。それは一見すると空転的なメタ認知に見えるが、この回の対話が示したのは、それが極めて実践的な問いだということだ。言葉を解体し、パターンを認識し、定義を分解し、誤解を集め、制約を設ける——これらすべてが「考える」という行為の手つきであり、その手つきを自覚すること自体が、次の思考を生む土壌になる。
第2回「考えるとは何かを考える」は、三人の思考のプロセスを開陳し合う、いわば「知的な手の内の見せ合い」だった。
タムカイは言葉を通じて考える。漢字を解体し、音韻のずれを利用し、「違和感」を手がかりに概念の裏側にアクセスする。仲山はパターンを通じて考える。数千の店舗を見続ける中で暗黙知を蓄え、誤解の輪郭を描くことで本質を浮かび上がらせる。倉貫は構造を通じて考える。プログラミングで鍛えた「抽象化のメガネ」が、日常のあらゆる場面で共通部品を見つけ出す。
三つのアプローチは異なるが、底流には共通の構造がある。「直接描かない」ということだ。タムカイは「ラクガキ」と書くことで「落書き」の先入観を消す。仲山は「誤解のパターン」を集めることで「正解」をネガティブスペースから浮かび上がらせる。倉貫は「ダメなプログラム」を示すことで「いいプログラム」の輪郭を伝える。いずれも、対象を直接定義するのではなく、その周囲を描くことで本質に迫るアプローチだ。
そしてこの「間接性」こそが、「考える」という行為の本質なのかもしれない。答えに直線的に向かうのではなく、制約を設け、ずらし、反転させることで、思考はより遠くまで到達する。三人は30分の対話の中で、その手つきを互いに見せ合い、確認し合い、共振した。
「好きなリスナーにしかついてこれない」と倉貫は笑ったが、この「こじらせ」は決して閉じた遊びではない。ラクガキ講座の参加者が「私のとは違うが、こんなのもあるんだ」と気づくように、この対話もまた、聴く者に「自分の考え方」を見つめ直すフックを提供している。
第3回では、このフックがさらに多方向に展開する。三人の「おしゃべり」がどこまで花開くのか——その行方を見届けたい。